作家・田中芳樹の現在を知って、かつて大ファンだった自分が思うこと

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作家の田中芳樹氏(以下、田中芳樹と表記します)が、2024年11月に脳内出血で倒れ、現在は介護付きの施設でリハビリを続けていると報じられています。

若い頃に『銀河英雄伝説』や『アルスラーン戦記』と出会い、以来40年近く田中芳樹の活動を追い続けてきた一人の「古参ファン」として、この知らせをどう受け止めたのか、そして今どのように感じているのかを、ここに書き留めておきたいと思います。

目次

1. SNSの投稿で知った田中芳樹の「現在」

2025年11月30日、田中芳樹事務所代表の安達裕章氏が、X(旧ツイッター)に上記のポストを投稿しました。

要約すると

  • 2024年11月30日、作家・田中芳樹が脳内出血で倒れ、救急搬送されたこと
  • 脳と運動機能にダメージが残り、現在は介護付きの施設で生活していること
  • その施設でリハビリを続けながら、作家としての復帰を目指していること

の三点が説明されています。

この発表は、大きな反響を呼び、ネットメディア等にも大きく取り上げられる事態となりました。 ファンからも驚きとショックの声や、回復祈願や励ましの声が多く寄せられています。

私自身も、長年の氏のファンとして大きな驚きを持ってこのニュースを受け止めました。

ただ、このポストを読んだときに真っ先に感じたのは、「命が助かったのは本当に幸いだった」という安堵と同時に、「作家としては相当に厳しい状況なのではないか」という現実でした。

脳内出血は、治療がうまくいっても、言語や運動機能、集中力などに何らかの影響が残ることが少なくありません。
ましてや七十代に入った作家にとって、以前と同じスタイルで長編小説を書き続けるのは、相当な負荷がかかるはずです。

ポストの中には「まだまだ書きたいものがあるからね」と、田中芳樹本人の言葉も紹介されています。読者としては、その一文にすがりつきたくなる気持ちもありますし、「いつかまた新作を」という淡い期待も、完全には捨てきれません。

しかし一方で、ここまで詳しくリハビリや生活環境のことが説明されている以上、「かつてのペースで商業作品を書き続ける」という意味での復帰は、現実的にはかなり難しいのだろうと感じざるを得ませんでした。

このニュースを前にしたとき、私の中でいちばん強かった感情は、「新作が読めなくなるかもしれない」という残念さよりも、むしろ「自分の青春の一部を形作った作家も、老いと病に直面しているのだ」という重さでした。

学生時代に夢中で氏の作品を読んでいたころの私は、作者の年齢や健康状態など考えもしませんでしたが、あれから四十年近く経ち、自分自身も五十代となりました。

今回のポストは、田中芳樹という一人の作家の近況であると同時に、「時代は確実に進み、自分も含めて誰も若いままではいられない」という現実を突きつけてきました。

だからこそ、今このタイミングで、自分と田中芳樹との距離を一度きちんとことばにしておきたい――そう思いました。

かつて作品から受け取った影響と、途中から少しずつ離れていった経緯、そして今回の近況を知って感じたこと。

それらを整理することが、このニュースを前にした自分なりの「区切り」の付け方なのかもしれない、と考えています。

2. 自分の考え方に影響を与えた『銀河英雄伝説』

高校生の頃、ふっと立ち寄った書店で、たまたま背表紙が目に入ったのが『銀河英雄伝説』でした。
誰かに勧められたわけでもなく、アニメから入ったわけでもなく(当時アニメ版はまだありませんでした)、「なんとなく気になって手に取った一冊」が、結果的に自分のものの見方を大きく変える本になりました。

読み始めた当初は、宇宙戦艦が飛び交うスペースオペラとしてのダイナミックな戦闘シーンや、群像劇としての面白さに惹かれていました。

しかし巻を重ねるうちに、これは単なる宇宙戦記ものではなく、「架空の未来史」を通して

専制政治と民主主義の対立や、軍事と政治の関係、個人の自由と国家のあり方を問う物語なのだと気づかされます。10代後半でこうしたテーマに真正面から触れた経験は、それまで持っていた政治や歴史へのイメージを大きく揺さぶるものでした。

登場人物について言えば、私は一貫してラインハルトではなくヤン・ウェンリーの側に肩入れしていました。

ヤンの、個人の自由を何より重んじる姿勢や、権力に対して一歩引いて疑いの目を向ける態度、そして戦争そのものに対する嫌悪感に強く共感していたからです。

「最悪の民主政治でも最良の専制政治に優る」といった趣旨の台詞や、「国家の存亡より個人の自由のほうが重い」といった考え方に触れ、政治や国家を“崇高なもの”としてではなく、「人間が作った不完全な仕組み」として見る視点を教えられました。

また、戦場での“名将”と“愚将”の違いを、道義的な優劣ではなく「どれだけ多くの人間を殺すか」という量の差として描く視点にも衝撃を受けました。

戦争や軍事を美化するのではなく、冷ややかな距離感で見つめるヤンの姿勢は、そのまま自分の歴史観や人間観にも影響を与えていったように思います。

そうした意味で『銀河英雄伝説』は、単に「夢中になって読んだ面白い物語」というだけではなく、10代後半の自分の思想や価値観に静かに入り込んできた作品でした。

今振り返っても、「自分のものの見方の土台の一部には、確かに銀英伝がある」と言えるくらいには、大きな存在だったと感じています。

3. アルスラーン戦記第一部という「もう一つの代表作」

『銀河英雄伝説』の次に夢中になったのが、『アルスラーン戦記』でした。

1980年代後半から90年代前半にかけて、第一部の新刊が少しずつ出てくるのをリアルタイムで追いかけられたのは、今振り返っても大きな幸福だったと感じます。

物語は、王都を追われた若き王太子アルスラーンが、仲間たちとともに国の奪還を目指す王道の戦記ファンタジーです。

ただ、単なる冒険譚ではなく、宗教対立や民族問題、身分制度と奴隷制の是非、戦争と政治の関係といったテーマが複雑に絡み合い、「もう一つの銀英伝」と呼びたくなるような重層的な作品として読んでいました。

第一部のラストで、アルスラーンが王として即位し、ひとまずの希望を手にする結末には、大きな達成感がありました。

本音を言えば、王都奪還までのこの第一部で物語が完結していれば、『アルスラーン戦記』という作品としてほぼ完璧だったのではないか、と今では思っています(この感想は、第2部まで読み終えた今だからこそ抱くものでもあります)。

少なくともこの頃の私にとって、田中芳樹は「間違いなく大作家」でした。
その評価が揺らぐことはなく、だからこそ、この後に続いていく作風の変化に対して、戸惑いや失望の気持ちが大きくなっていくことになります。

4. 『創竜伝』から見えてきた“スタンスの変化”

アルスラーン戦記第一部に熱中していた頃と前後して、『創竜伝』も夢中になって読んでいました。

アルスラーン戦記が架空世界を舞台にした戦記ファンタジーだったのに対し、『創竜伝』は現代日本を舞台にした伝奇アクションで、同じ田中芳樹の作品でありながら、スタンスも手触りもまったく違うシリーズでした。

読み始めた当初、私は純粋に「痛快なエンタメ小説」としてこの作品を楽しんでいました。

主人公の竜堂兄弟のキャラクターはよく立っていて、超人的な兄弟たちが理不尽な権力や暴力をねじ伏せていく構図もわかりやすく、テンポの良さもあって、銀英伝とは別方向の「軽快な田中芳樹」を満喫していたように思います。

シリーズ序盤だけを切り取れば、今でも素直に面白いと感じる読者は多いのではないでしょうか。

ところが、巻を重ねるにつれて、作品の重心が少しずつ変わっていった印象があります。

与党=保守政党=事実上の自民党を思わせる架空政党が、ほぼ一貫して悪徳政治家の集団として描かれ、政治家は例外なく利権と汚職にまみれた存在として登場する場面が増えていきました。

権力批判や社会風刺そのものはフィクションでは珍しくありませんし、最初のうちは「田中芳樹らしい切り口」として受け止めていましたが、次第に物語よりも政治的スタンスの方が前に出ているように感じられるようになります。

自衛隊戦車の描写は、その象徴の一つでした。

川底の石にこすれただけで戦車の底に穴が開く、という場面は、さすがに無理があるだろうと感じました。

自衛隊や国内防衛産業への皮肉として書かれたのだろうとは思いつつ、軍事的なリアリティより「自衛隊装備=欠陥品」というイメージを優先したかのような描き方には、どうしても違和感を覚えてしまいます。

こうした兵器描写の扱いについては、私だけでなく、軍事や兵器に詳しい読者からも「さすがにおかしいのではないか」という疑問や批判が寄せられており、ネタとして取り上げられることも少なくありませんでした。

思い返せば、『銀河英雄伝説』の「長征一万光年」(毛沢東の紅軍長征がモチーフ)という言葉などからも、反権力的な視点や中国革命史へのリスペクトは、作品世界ににじんでいました。

ただ、『創竜伝』の中盤以降では、その傾向が物語全体を覆うほど強くなり、キャラクターやストーリーの魅力よりも、政治的・思想的メッセージの方が前面に出てきたように感じます。

そのあたりから、私としては純粋に物語を楽しみたいのに、実際には「作者の主義主張を延々と聞かされている」ように感じる場面が増え、そのズレに強い違和感を抱くようになりました。

簡単に言えば、作品の中心軸が物語から作者の思想へと移っていったことで、かつての熱中ぶりからは一歩距離を置くきっかけになってしまった、というのが正直なところです。

5. 歴史小説と薬師寺涼子、そしてアルスラーン戦記第二部

『銀河英雄伝説』や『アルスラーン戦記』第一部で、私たちを熱狂させた「田中芳樹の全盛期」。
その輝きがあまりに強烈だっただけに、1990年代以降のキャリアについては、長年のファンとして複雑な思いを抱かざるを得ません。

ここでは、未完や長期休載を経てシフトしていった歴史小説路線、現代エンタメとしての『薬師寺涼子シリーズ』、そして賛否渦巻く『アルスラーン戦記』第二部について、一人のファンとして抱いた率直な思いを綴っていきたいと思います。

5-1. 歴史小説家への転身と、自分にとっての物足りなさ

田中芳樹のキャリアを語る上で、避けて通れないのが「未完」「遅筆」です。
『タイタニア』の長期にわたる中断(完結まで27年)や『灼熱の竜騎兵』の実質的な放棄は、ファンの心に小さくないしこりを残しました。

そんな中、氏は中国を舞台にした歴史小説へと主戦場を移し始めます。
『風よ、万里を翔けよ』『紅塵』といった作品群です。

これらを実際に手に取った際、「非常に読みやすく、整っている」とは感じました。
「歴史のガイドブック的で分かりやすい」「正史の隙間を埋めるエピソードが巧みだ」という評価も頷けます。

歴史小説への入り口として、その役割は十分に果たしていると言えるでしょう。

しかし、あえて厳しいことを申し上げれば、私個人としては「決定的な物足りなさ」を感じてしまいました。

司馬遼太郎が描くような歴史の濁流に翻弄される人間ドラマや、北方謙三が描く“男たちの情念と熱量”──そうした「本格歴史小説」が持つ重厚感と比較すると、どうしても田中芳樹の歴史物は軽く感じられてしまうのです。

まるで史実という教科書に、上手な台詞を書き加えただけのような淡泊さが否めません。

かつて『銀英伝』で味わった、架空でありながら現実以上にリアルな「熱」を期待していた身としては、「綺麗すぎる」歴史小説は、どうしても物足りなさを残す結果となりました。

5-2. 薬師寺涼子の怪奇事件簿:痛快なエンタメ作品からワンパターン化と政治批判作品へ

1998年より始まった『薬師寺涼子の怪奇事件簿』シリーズも、初期はかなり楽しんでいました。
常識外れの令嬢警視が超法規的な手段で事件をねじ伏せていく荒唐無稽さには勢いがあり、「細かい理屈は抜きにして読ませる」タイプのエンタメとしてよく出来ていたと思います。

しかし、巻を重ねるごとに雲行きが怪しくなっていきます。
展開がワンパターン化したことも一因ですが、それ以上にファンを遠ざけたのは、作者自身の「社会批判・政治批判」が前面に出すぎてしまった点です。

実際、「政治的主張が強すぎて素直に楽しめない」「初期は好きだったが、だんだん説教臭くなった」といった感想も見かけます。

かつて銀英伝やアルスラーン戦記第一部で見せていた、物語とテーマのバランスの良さを知っているだけに、このシリーズにはどうしても“全盛期との落差”を感じてしまいました。

私にとっては、作者の衰えがはっきりと表面に出てしまった例の一つだったように思います。

5-3. アルスラーン戦記第二部とシリーズの完結、「第一部との落差」への失望

そして、約40年にわたり田中芳樹作品を追いかけてきた私にとって、最も複雑な感情を呼び起こしたのが、『アルスラーン戦記』第二部、およびその完結です。

第二部の完結によって、アルスラーン戦記という長大な物語に、ひとまず「終わり」という区切りがついたこと自体は、評価すべきことだと思います。

約30年にわたって続いたシリーズを、どんな形であれ最後まで書き切ることは、作家として並大抵のことではありません。
「とにかく完結までたどり着いた」という事実に、まずは敬意を払うべきだと感じています。

しかし、その中身について「手放しで満足したか」と問われれば、首を縦に振ることはできません。

特に終盤の展開には、正直なところ戸惑いを隠せませんでした。

長年苦楽を共にしてきた主要キャラクターたちが、まるで物語を畳むための手順のように、次々と退場させられていく。

その死に様からは、かつてのような必然性やドラマ性が薄く、どこか事務的な冷たさを感じてしまったのです。

物語の核心である蛇王ザッハークとの最終決着にしても、『銀河英雄伝説』のクライマックスに漂っていたような、異なる正義や哲学がぶつかり合う崇高さとは、少し趣が異なっていたように思います。

こうした「モヤモヤとした感情」は、ネット上の感想を見ても散見されます。

もちろん、完結を祝う声もありますが、それ以上に「救いがない」「あまりにあっけない幕切れ」といった、行き場のない寂しさを吐露する声が目立つのも否定できません。

中には、これから読む人に向けて「第二部は読まない方がいいかもしれない」という、複雑なアドバイスさえ見受けられるほどです。

もちろん、第二部に意味がなかったとは言いません。
王都奪還・即位後の「守成の苦しみ」を描こうとした意図も理解はできます。

しかし、第一部があまりにも完璧で、あまりにも輝いていたがゆえに、その落差を強く感じてしまったのが偽らざる本音です。

そうした様々な評価を踏まえたうえで、あくまで一人の古参ファンとして率直に言えば

「第一部で終わっていれば、自分の中では“伝説的な名作”のままだった」

これが、長い旅路の果てに私が抱いた、正直な感想なのです。

6. 回復を願いつつ──色褪せない「黄金期」の記憶と共に

自分にとって現在の田中芳樹は、その動向には目を配りつつも、作品そのものを積極的に手に取ることはもうない作家になってしまいました。
長年のファンとして、これは辿り着かざるを得なかった正直な結論です。

しかし、だからといって氏を否定したり、揶揄したりする気持ちはまったくありません。
むしろ若い頃に『銀河英雄伝説』と『アルスラーン戦記』第一部をリアルタイムで追うことができたのは、今振り返っても何物にも代えがたい“贅沢な経験”だったと感じています。

私の中で田中芳樹という作家は、「全盛期は間違いなく大作家」であると同時に、「その後は自分とは違う地平へ歩んでいった作家」という、二つの顔を持つ存在としてようやく静かに整理がついたところです。

脳内出血と介護付き施設でのリハビリという現実を思えば、作家としての復帰以上に、まずは一人の人間として少しでも穏やかに回復してほしい――そのことを、心から強く願っています。

たとえ今後、新作が刊行されたとしても、自分がそれを追いかけるかどうかは分かりません。

これからは、ときどき黄金期の作品を読み返し、あの頃の熱狂を思い出しながら、静かに回復を祈ること。

それこそが、私にとっての「田中芳樹」との、これからのささやかで、しかし幸福な付き合い方になっていくのだろうと思います。

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この記事を書いた人

就職氷河期世代の50代おじさんライター。

高齢の両親のサポートをしながら在宅フリーランスとして活動中。

生成AI、資産運用、健康とメンタルヘルス、エンタメ等の情報発信をしています。

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