親父が倒れた日から始まった、おじさんの人生転機録【前編】

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目次

1. 親父がまさかの危篤、からの寝たきりコース突入―施設探しのドタバタへ

どうも、氷河期おじさんです。

今回は、おじさんがなぜ今のようなフリーランス生活を送ることになったのか、その経緯をお話ししようと思います。

(※プロフィールをご覧の方はご存じかもしれませんが)
おじさんは北海道で高齢の両親を「サポート」しながら、在宅でフリーランスをやっています。
あくまで“サポート”であって、“介護”というほどのものではありません。

今は要介護1の母と二人暮らし、親父は要介護4で寝たきり&重度の認知症。
札幌市内の療養型病院に入院中です。
(とはいえ、もう退院できる見込みはほとんどありません。たぶん最後まで病院のお世話になると思います。)

10年以上前、おじさんは地元を離れ札幌で一人暮らしを始めましたが、今は両親のサポートをしながらこうして暮らしています。
どうしてこうなったのか? そのてん末を、改めて語ってみようと思います。

2. 親父が間質性肺炎で倒れる―医者の一言「もう死にますね」

2023年5月末、母から突然電話がかかってきました。
内容は「父が間質性肺炎で緊急入院した」「医者からは『もう死にますね』と言われた」というものです。
(スゲェ事言う医者だな、とは思いますが、おじさんの地元の医者は大体こんなモンです)

そのときのおじさんの正直な気持ちは、「ああ、そうなんだ~」という、どこか他人事のような感覚でした。

おじさんの父親は、昭和のいわゆる「モラ夫」タイプ。
DVこそなかったものの、子どもにかまうこともほとんどなく、外遊びと自分が一番大事、という性格でした。
そのため、我が家は実質、母子家庭のようなものでした。

思い返してみても、親父との楽しい思い出はほとんどありません。
嫌い」とまではいきませんが、「好きじゃない」というのが率直な感情です。

さらに、10年ほど前からは肺気腫も患っていましたから、今回の肺炎はさすがに厳しいだろうな、と心のどこかで覚悟していました。

ただ、その時おじさんはは3日後にかかりつけ医の予約があり、常用薬も切らせない事情があったのです。

さすがに3日で亡くなることはないだろう、と思っていたので、「病院の予約もあるから、3日後に行くよ」と母に伝えます。
死に目に間に合わなくても、それはそれで仕方がない、と割り切っていたのも本音です。

ただ、母の方は札幌から300キロも離れた地元で、親父と二人暮らし。
周囲に頼れる親戚もおらず、親父の危篤に動揺していて「すぐ来てほしい」と言われました。
やはり、それを無視することはできません。

結局、翌日には地元へ向かうことに決めます。
その2日後に札幌へ戻って診察を受け、またすぐ地元へと“とんぼ返り”。

こうして、おじさんの約半年にわたる波乱の日々が始まりました。

3. 奇跡的に生還するも、寝たきり&重度認知症に

母からの電話を受けた翌日、おじさんは車で実家へ向かいました。
そのまま病院へ直行します。

人工呼吸器を挿管することになり、親父と会話できるのはこれが最後になりそうでした。
親父と正気で交わした最後の言葉は、「こんなハズじゃなかったんだけどな…」という一言。

その後すぐICUに搬送されます。
当時は新型コロナウイルスがまだ蔓延していたこともあり、面会は謝絶となりました。

それからというもの、病院から連絡が来ることもなく、不安と動揺で落ち着かない母をなだめながら、容態の変化をただ待つ日々が続きます。

やがて、2週間が経った頃、ようやく病院から連絡が入りました。
親父の意識が回復した、という知らせです。
まさかの奇跡的な回復で、危篤状態を脱したのでした。

とはいえ、コロナの影響で面会は不可。
しばらくは体力回復を優先し、それからリハビリを始めるとのこと。

さらに1ヶ月ほど経って、ようやく短時間の面会が許されました。
車椅子に乗った親父は、こちらの声掛けにもほとんど反応せず、言葉も通じない様子です…。

リハビリ、全然やってないやんけ…
病院から細かな説明はありませんでしたが、大体の事情は察せられました。

親父は「モラ夫」と言われても仕方ないほど自己中でわがままな人でしたから、おそらくリハビリも面倒がって拒否したのでしょう。

そして、地元の病院はリハビリを拒否する患者を説得するようなやさしい所ではありません。
おそらく本人がリハビリしないので、そのまま放置していたとおじさんは考えました。

しかも、もともと軽度の認知症傾向がありましたが、間質性肺炎による危篤状態や長期入院、家族と面会できない状況が重なったことで、認知症も一気に進行していました。

すぐに介護認定を申請します。
結果は要介護4という、かなり重い判定。
要介護4とは、自力で立ったり歩いたりができず、食事やトイレも一人ではできない状態を指します。
この状態では、母が一人で自宅で介護するのはとうてい無理でした。

しかも、肺気腫と間質性肺炎が重なっているため、常時酸素吸入が必要な体です。
もはや、介護施設への入所以外に方法はありません。

ところが、地元の介護施設はどこも満員で、空き待ちの人も大勢いる状況。
地元での入所は、ほぼ絶望的でした。

そこで、病院のソーシャルワーカー(生活や介護、経済的な悩みを持つ人や家族の相談に乗り、必要な支援やサービスへつなぐ専門職)に相談し、市外、つまり札幌の療養型病院(長期間の療養や医療的ケアが必要な高齢者や重い慢性疾患の患者さんが入院できる病院)へ転院する方向で動くことに。

しかし、話はそうスムーズには進まなかったのです。

4. 進まない転院先とのやりとりと、地元の病院の驚愕のウソ

転院先の療養型病院はすぐ決まりました。
しかし、ここからが本番でした。

相手の担当者がとにかくルーズ。
電話をかけても、回答がくるのは早くて翌日、大抵は2日後です。
「必要な書類を送ります」と言われても、それが届くのは1週間後。
すぐ返送しても、また1週間は返事がありません。

転院先自体は決まっているのに、肝心の転院日がまるで決まらない状況です。
親父を札幌まで移送するには、普通の車は使えません。
寝たきりなので、ストレッチャーごと乗せられる大型の介護タクシーが必須です。

しかも、地元の介護タクシーは常に予約で一杯。
早めに転院日を決めて予約を押さえないと、移動手段が確保できません。

さらに、札幌まで約300キロ。介護タクシーの料金はおよそ10万円。
予定を早く決めなければならないのに、転院先からの連絡は遅いまま。
おじさんも、さすがにイライラしてきました。

正直、もう自分の軽自動車をフラットシートにして親父を乗せ、札幌まで連れて行ってやろうか――そんなことまでなかば本気で考えていました(もちろん無理と周囲に止められましたが)。

そんなやりとりが続いていた中、今度は現在親父が入院している病院から驚くような連絡が入りました。

「もう歩けるようになったので、退院して自宅で介護してください」と言うのです。

この時点で入院から約2ヶ月が経過。
おじさんも、病院側がベッドを空けたい時期だろうとは思っていました。

とはいえ、すでに転院が決まっていて、あとは転院日を調整する段階。
このタイミングで介護4の患者を「自宅で介護しろ」とは、常識ではちょっと考えられない話です。

連絡先は母になっていたため、この電話も母が受けましたが、驚きと混乱で「どうしよう…」と戸惑うばかり。

おじさんは頭にきて、すぐ病院に電話をかけました。
「転院が決まって待機している患者を退院させろというのは、主治医の指示なんですか?」
「歩けるようになったということですが、本当に自力で歩行してトイレに行けるんですか?」

病院側の返答は、「そのような(退院の)話は出ていませんし、本人は全く歩けない状態です」とのこと。

ここでおじさんの頭は完全にポルナレフ状態
「な… 何を言ってるのかわからねーと思うがおれも何をされたのかわからなかった… 頭がどうにかなりそうだった…」というヤツです。

では、誰がそんなウソをついて退院させようとしたのか。
犯人を突き止めてやろうかと思いましたが、母が「もうすぐ転院するんだから、これ以上揉めたくない」と言うので、おじさんも追及はそこでやめました。

そんな事件があったものの、ようやく転院日と介護タクシーの予約も確定。
親父が札幌に転院できたのは、8月下旬のことでした。

ですが、さすがにこの退院要請の件は、今でも納得できず不快な思いが残っています。

5. 母との同居と新居探し、しかしその前に大問題が発生

2023年8月下旬。
ようやく親父の転院騒動は終わりましたが、これで全てが片付いたわけではありません。

このままでは、地元に一人で残される母のことを考えなくてはならない状況です。

おじさん自身は10年以上前から札幌で一人暮らしをしており、妹も結婚して同じく札幌に住んでいます。

かつては地元にも親戚がいましたが、今は全員が亡くなったり市外へ転居していて、母が頼れる人は誰もいなくなっていました。

母は以前から、「もし父が先に亡くなったり介護施設に入ることになったら、おじさんと一緒に暮らしたい」と話していました。

おじさんも、母が一人になったら同居することは考えていました。

まあ、もし逆に母が先に亡くなって親父が一人残ることになっても、同居するつもりは全くありませんでしたが(笑)。

タオパンパ1の親父の面倒なんて、正直一から十まで見る気はありません、というか無理です
三日と持たない自信があります。

親父自身も「もし自分一人になったら、ここ(自宅)で最後まで一人で暮らす」と前から言っていましたので、そこに関しては特に問題なかったと思います。

…多分一週間くらいで餓死していたかもしれませんが。
なにしろインスタントラーメンすら作れない人でしたから。

そんなわけで、札幌で母と同居することはすんなり決まりました。
ただ、今おじさんが住んでいるマンションでは二人暮らしには手狭です。

そのため、新たに二人で住める住居を探すことが必要になりました。

ところが、それよりもはるかに大きな問題がこのあと発生することになるのです。【中編に続く】

  1. ネットスラングの一種。
    「身の回りのことを母親や奥さんなどに当然のようにやってもらっている、“マザコン”気質の男性」のことを意味する。 ↩︎
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この記事を書いた人

就職氷河期世代の50代おじさんライター。

高齢の両親のサポートをしながら在宅フリーランスとして活動中。

生成AI、資産運用、健康とメンタルヘルス、エンタメ等の情報発信をしています。

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