ミス・フィンランド炎上事件が示した、欧米社会のアジア人差別への鈍感さ

コラム、エッセイ用のアイキャッチ画像

2025年11月、ミス・フィンランドの優勝者であるサラ・ザフチェによるSNS投稿が、国際的な炎上を招きました 。

指で両目を引き上げる、いわゆる「つり目」のジェスチャーに「中国人と食事中」というキャプションを添えた写真です 。



投稿自体は直ちに削除されましたが、スクリーンショットが瞬く間に拡散され、アジア諸国を中心に激しい非難の声が広がりました 。

しかし、私がより強い不快感を覚えたのは、その後の展開です。

擁護や模倣、さらには開き直りとも取れる反応が続いたことで、「人権先進国」と称されてきたフィンランドに、これほど無自覚な差別が存在するのかと、失望を禁じ得ませんでした 。

本稿では、この事件を起点として、欧米社会に根深く残るアジア人差別の構造を考えます 。

目次

1. フィンランドの炎上が示した「差別だと認識していない差別」

1-1. 「ただのジョーク」「過剰反応しすぎ」という擁護が意味するもの

サラ・ザフチェは謝罪を余儀なくされ、ミス・フィンランドのタイトルも剥奪されました 。
本来であれば、ここで事態は収束に向かうはずでした。

しかし、実際にはそうはならず、むしろ問題を深刻化させる動きが続いたのです。

火に油を注いだのは、あろうことか現地の国会議員たちでした。

与党・フィン人党に所属するユホ・エーロラ氏やヨアキム・ヴィゲリウス氏らが、あえてサラ・ザフチェと同様の「つり目」ジェスチャーをした写真をSNSに投稿し、彼女を擁護する姿勢を鮮明に打ち出したのです 。

彼らの主張は一貫して、「これはただのジョークだ」「周囲の反応は過剰すぎる」「ユーモアのセンスの問題だ」という、極めて身勝手なものでした。

ただ、ここで私たちが問うべきは、それが差別か否かという水掛け論ではありません。
なぜ彼らが、その行為を「差別」だと直感的に理解できなかったのか、という点に尽きるでしょう。

もしこれが黒人差別や反ユダヤ主義を想起させる表現であれば、同様の理屈で「冗談」として片付けることは、欧米社会の良識に照らしてもまず不可能なはずです。

ところが、対象がアジア人になると、途端に「文化的な冗談」や「軽い失敗」として安易に処理されてしまう。

今回の炎上は、そうした対象によって切り替わる人権意識の温度差を、残酷なまでに可視化したといえます。

1-2. 国際問題となって初めて是正されるアジア人差別への鈍感さ

この一件は、中国・日本・韓国から相次いで外交的な抗議が寄せられたことで、国家間の政治問題へと発展しました。

この強い反発を受ける形で、フィンランドのペッテリ・オルポ首相はようやく12月17日、アジア諸国に向けて公式に謝罪を表明するに至ったのです。

さらに、欧州評議会の人種差別監視機関が、以前からフィンランド国内の差別問題を指摘していた事実も、改めて注目を集めることとなりました。

こうして振り返ると、この問題は国内の倫理観や自浄作用によって収束したわけではありません。
外からの強い圧力がかかったことで、初めて「解決すべき問題」として整理された面が極めて大きいのです。

だからこそ、私の中には拭い去れない「引っかかり」が残りました。

人権先進国を標榜するフィンランドが見せた態度は、言外に「あらゆる差別は許さない。だが、アジア人は例外である」と告げているように感じられたからです。

確証はありませんが、この不公平な温度差に潜む違和感こそが、騒動の本質を突いているのではないでしょうか。

2. フランスやアメリカに共通する「見えにくい差別」

フィンランドで起きた今回の事態は、決して北欧一国に限られた特異な現象ではありません。

フランスやアメリカといった他の欧米諸国においても、アジア人に対する「見えにくい差別」は至るところに潜んでいます。

2-1. フランスで語られる“日常レベルの差別”

フランスを訪れた、あるいは現地で生活した経験を持つアジア人の多くは、飲食店での苦い体験を口にします。

挨拶を無視される、注文を後回しにされる、あるいは露骨に雑な扱いを受けるといった振る舞いです。

こうした行為は、身体的な暴力とは異なり、差別であると客観的に断定しづらい形で現れます。
そのため、被害を訴えても「被害妄想ではないか」「単に店員が忙しかっただけだ」と片付けられてしまうことが少なくありません 。

新型コロナウイルスの流行期には、「ウイルス扱い」を受けるといったより深刻な差別も顕在化しましたが、平時においてはこうした「気のせい」として処理される微細な攻撃が、当事者の精神を静かに、かつ確実に摩耗させているのが現実です。

2-2. アメリカ:BLM以後に浮き彫りになった差別感度の偏り

一方、アメリカにおいては、社会的な「差別への感度」そのものに偏りがあることが浮き彫りになっています。

ここで一度、近年の重要な社会運動である「BLM」について振り返っておきましょう。

BLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動とは、黒人に対する不当な暴力や人種差別の撤廃を訴えるもので、2020年の事件を契機に世界的な広がりを見せました 。

この運動により、黒人差別に対する社会の意識は劇的に高まり、差別的な言動への批判は極めて厳格なものとなりました 。

しかし、その影でアジア人への対応はどうだったでしょうか?

パンデミック以降、アジア人に対するヘイトクライムは急増したにもかかわらず、社会全体の注目度や抗議の熱量は、黒人差別のそれと比較すると相対的に低いままに留まっています 。

「Stop Asian Hate」というスローガンは生まれたものの、BLMと同等の社会的影響力を持つには至っていないのが実情です 。

これは黒人コミュニティを非難する話ではなく、あくまで「社会がどの差別にどれだけ敏感であるか」という優先順位の問題です 。

差別という暴力は、常に「声を上げにくい集団」や、社会が軽視しがちな対象へと向かいやすいという、冷酷な力学を私たちは直視しなければなりません 。

3. なぜ欧米ではアジア人差別が軽く扱われがちなのか

これほどまでに明白な差別が、なぜ「冗談」として片付けられてしまうのでしょうか?
その背景には、欧米社会が抱える構造的な要因が潜んでいます。

3-1. 歴史的に「越えてはいけない一線」に含まれてこなかった

欧米において、黒人差別の根源である奴隷制や、反ユダヤ主義の象徴であるホロコーストは、教育や社会規範の中で「決して越えてはならない一線」として深く刻まれています。

これらは長年の教育と贖罪、そして厳格な社会的タブーとして共有され、監視の対象となってきました。

一方で、アジア人に対する差別は、それらと同等のレベルで歴史的に総括されてきたとは言い難いのが実情です。
この認識の欠落が、アジア人差別を「取るに足らないもの」として軽視する土壌を生んでいます。

3-2.「社会的代償」が軽い差別である

また、現実的な側面として「社会的代償の軽さ」という問題も無視できません。

これまでアジア系のコミュニティは、他と比べて大規模な抗議活動や、社会を揺るがすような政治的圧力を展開することが比較的少ない傾向にありました。

その結果、差別を行う側にとっては、アジア人を標的にしても「自らが社会的代償を負うリスクが低い」という、極めて卑劣な計算が成立してしまったのです。

いわば、アジア人以外の人種にとっては、「安全な差別」として利用されてきた側面は否定しようがありません。

4. まとめ:人権先進国の虚像と、向き合うべき真実

今回の事件を通じて私が抱いたのは、単なる驚きではなく、拭い去ることのできない強い「不快感」と深い「失望」でした。

人権先進国と称されるフィンランドが見せた一連の態度は、あたかも「あらゆる差別は許さない。だが、アジア人は例外である」と無言のうちに告げているように感じられたからです。

差別は、必ずしも剥き出しの憎悪だけで生まれるものではありません。

「たいしたことではない」「単なる冗談だ」という無意識の軽視こそが、差別を日常の一部として定着させてしまいます。

歴史的に「越えてはいけない一線」として総括されず、社会的代償の低さゆえに温存されてきたこの歪な構造は、今や明確な外交・経済リスクへと変質しました。

人権という普遍的な価値が、特定の対象を除外した「身内だけの正義」であってはなりません。
欧米社会が誇るその看板が、真に誠実なものであるのか。
私はこれからも一人の発信者として、その真価を冷徹に見極めていきたいと考えています。

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この記事を書いた人

就職氷河期世代の50代おじさんライター。

高齢の両親のサポートをしながら在宅フリーランスとして活動中。

生成AI、資産運用、健康とメンタルヘルス、エンタメ等の情報発信をしています。

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